発達に遅れや偏りのある子どもと、その家族を応援します‼

この子とのあゆみ2

元気!元気!

でんしゃ

晩婚で、立て続けに子供を産んでいた頃(笑)のこと。長男も次男も順調に成長し、おしゃべりも少しずつでき、オムツも取れて、おねしょもなく、笑って、走って、兄弟ケンカをしたり、いたずらしたりと、私自身も男の子の子育てを楽しんでいました。お腹には3人目の子が宿っていました。
 長男は、レゴブロックでお城を作るのが好き、電車が大好きで絵本やトミカの模型はもちろん、京王線を線路際で眺めるのが日課となっていました。機関車トーマスも好きで、父親はいろんな電車の模型をお土産で持ち帰ることを楽しんでいるかのようでした。長男はひとつひとつの模型に名前を付けては、自慢げに教えてくれていました。
 弟のことも世話をしてくれたりして、どんな兄弟になるんだろうな~と、楽しみのある生活を送っていました。
 

発病と告知

長男3才、次男2才、3人目の子どもが臨月という多忙の極みの頃でした。長男の行動が何かヘン???遊びの途中で動作が止まり、宙を見つめて10秒くらいするとまた何事もなかったように、遊び出すということをするようになっていました。
ただの遊びかと思っていたのですが、念のため近くの病院に連れて行くと「一応脳波検査してみましょう」ということで検査をすると「あ~てんかん波が出てるわね。でも薬で調整できるから心配ないわよ。」とドクターは母の気持ちや意識とは全く別の次元で病気を告知しました。『てんかん=泡を吹いて突然倒れる』という知識しかない若い母にとっては、薬で調整できるから心配ないと言われても・・・・と、自宅に帰り膝を抱えてただただ泣いていました。もう少し、患者のことを考えた告知の方法があるのではないかと、今になって痛感します。
その後、複数の友人からその病院の小児科ドクターの評判の悪さを聞いて、“あ~やっぱり”と思ったものです。
それでも、悲しんでばかりはいられず、服薬治療がスタートしました。切実な願いとは裏腹に、病状は悪化の一途をたどり、半年後には難治性のてんかん(レノックスガストー症候群)に移行してしまっていました。家族もこのままこの病院にいてはいけないんじゃないかということになり、ものすごい勇気をふりしぼり(転院を希望することは、ドクターのプライドを傷つけるのでは?と思っていたので、なかなか言い出せなかった。)こちらから転院を申し出ました。多少ドクターは渋ったものの、データを持っててんかんの専門病院に転院することができました。
 しかし、3番目の子ども(三男!)は無事に産まれたものの、ほとんど世話をした覚えがないほど長男の発作は多発していました。

あゆみ学園

 言葉が少し遅いな・・・と感じていたので、あゆみ学園の待機をしていたのですが、てんかんを発症してしばらくすると、退行が始まりヨダレが止まらなくなり、徐々にオムツが必要になったりと、現実を受け止めるのが本当に辛くなりました。
 発作は、脱力発作(いきなり全身の力が抜ける型)が主だったので、いつ転ぶのかわからずいっときも目を離すことだできず、気の抜けない生活を送っていると、あゆみ学園から連絡があり「母子通園だが、通っていいですよ」ということで通園がスタートしました。
何もわからず、あゆみ学園に連れられて行く次男はウルトラマンが好きだったので、あゆみ学園にもウルトラマン人形を持って行き、母と離れる時は先生も一緒にいてくれるものの、心細さをその人形をビュッと抱いて頑張っていました。

ウルトラマン

私はとにかく長男が少しでも良くなるようにということだけを考え、必死だったと思います。自分の身なりなんか全く考える余裕はなく、GパンにTシャツで化粧っ気は全くなく、髪を振り乱していたに違いありません。あゆみ学園に少し慣れてきた頃にハッとしたことがありました。ほかの母たちがきれいにしていることに気づいたのです。この先自分もおしゃれができるようになるのかな・・・と、不思議な気持ちになったものです。
そして、あゆみ学園では保護者会のある毎に、母たちが円座して自分の正直な気持ちを吐露する場がありました。人の話でも、自分が話しているときでも、何度泣いたかわかりません。でも、それがあったから
みんな同じ道を歩んで来ているんだ、同じ気持ちになる時があるんだということがわかり、気持ちがどれだけ楽になったかわかりません。なかなか普段は出せない正直な気持ちをさらけ出せる場があったことで、母同士のつながりも強くなっていたのかもしれません。今でも、あの頃の友達は信頼できる関係であり、心の支えとなっています。
  友達と同じように私を支えてくださったのが、あゆみ学園の先生方です。やさしい先生、厳しい先生いろいろなタイプの先生がいらっしゃいましたが、それぞれの場面で私を的確にフォローしてくださり、感謝しています。ある先生からは「どんなに発作があっても、あゆみ学園には来ても大丈夫よ。」という言葉をかけられ、涙が出ました。また、別の先生には「障害のある子はどうしたって手がかかるもの。だから、きょうだいには、“お母さんとふたりだけの時間”を作ってあげてね。トイレでギュッだけでもいいの。大きくなっても、障害のある子を預けてでも時間を作ってあげてね。ずっとそのことは頭の隅において子育てをしてね」と言われました。この言葉がなければ、きょうだいを待たせて障害のある長男の世話を優先してしまっていたかも知れないな~と、今、感じています。

保育園と入学

 長男はてんかん以外の病気はほとんどすることなく、毎日元気に通うことができていました。年中になるときに、健常児と一緒に生活をさせたいという思いがあり、公立保育園に申し込んだのですが、「てんかん発作が多すぎて、受け入れはできない」ということで、入園が見送りになりました。同学年の他のお子さんは、保育園や幼稚園に移って行くなか、取り残された感があったもののもう1年待とうと思えました。
 そして、翌年年長になるときに、ある私立保育園に入園を打診すると「お子さんの様子を詳しく聞かせてください」と言って下さり、てんかん発作が起きた時の対応を色々色々聞かれました。あんまり細かく聞かれたので、あゆみ学園の先生に愚痴ると「対応がわからないから、怖いの。対応がハッキリわかれば受け入れはしてもらえるんじゃないかな?」と言われ「なるほど!」と思い、それからというもの私は、説明をするのが当たり前を思えるようになりました。
 その甲斐あって、その保育園に入ることができて、あゆみ学園との併用生活がスタートしました。すでに次男は同じ保育園にお世話になっていたので、先生方のこともある程度わかっていたということもあり、安心して預けることができました。同じクラスの子供たちもはじめはおっかなびっくりでしたが、少しずつ接することに慣れてきて、子供同士も刺激しあい、いい経験になりました。
 しかし、やっと保育園に入れたと思ったのも束の間、今度は入学準備です。発作があることで、東京都の方からは「今の状況だけを見るのではなく、もっと先のことを考えて学校を選んだほうがいいです。」と言われ本当に悩みました。それでも、私はやっぱり「今」を見て学校を決めました。病気は悪くなることばかりでなく、良くなることもあるし、この先のことはわからないのだから・・・・。結局「知的校」に進みました。

外科手術

 てんかんについては、学校にも詳しく説明をして、理解ある対応をしてもらっていたものの、やはりてんかん発作そのものは塩梅は悪く、表情も乏しく、ますます退行は進んでいました。
 5年生のとき、主治医から「脱力発作にとても有効な外科手術があるから、受けてみないか?いい先生を紹介するから。」と勧められたものの“ある出来事”が私の頭をよぎりました。それは、てんかんが発症してまもなくの頃、入院しながら薬の調整をするということをしたときのことです。
 私が休憩室にいると、熊本から来たおばあちゃんという方が声をかけてきて下さり、おしゃべりをしていると「私の孫は、手術をする前は元気に三輪車をこいで遊んでいたの。東京に良い先生がいるというから、熊本からわざわざ手術を受けにきたのに、手術が失敗して寝たきりになってしまったの。それなのに、執刀医(主治医が紹介した先生の名前)は謝りにも来ないし、もう治る見込みがないから来週熊本に帰ることにしたの。」という話しをしてくださったのです。本当に無念だったろうな・・・と感じ、同時に「外科手術は最終手段なんだ。私はしない。」という決意をしていたのです。
 そんな思いがずっ~と私の中にはあったので、主治医からの勧めもなかなか受け入れられず、何もせずに1ヶ月が過ぎて、主治医のところに行くと「どうすることにしましたか?」と聞かれ、私が黙っていると「お母さん、何かあるでしょう?」と言われたのです。渋々上記の話しをすると「だったら、その先生に失敗した理由を聞きに行って見てください。」とすごいことを言うのです!!!「え~~!そんなこと聞けません。」と言うと「でもね、それを聞かなければ、お母さんが前に進めないでしょう?聞きに行って良いですから。」と背中を押されました。以前、病院を転院するだけでも心臓が壊れそうなくらい勇気が要ったのに、失敗した理由を聞きに行くなんて・・・。と思いながらも、仕方なく実行に移しました。すると、その先生は怒鳴ったり、嫌な顔をしたりせず「あ~あれは、僕たちの経験不足でして、あれからわかったことがあって今は、術後に必要な処置も確立されています。」と、自信を持って私に説明してくださいました。その態度が医者と患者が同等だということを示してくれたようで、私は「この先生を信じよう!」と思えたのです。そして、外科手術に踏み切ることができました。
「脳梁離断術」というものを施し、脱力発作から開放されたのでした。今でも、当時の主治医と執刀医には感謝しています。

転校

 5年生で脳梁離断の外科手術を受けて、危険を伴う脱力発作はなくなったもののやはり他の発作は治まらず、薬の調整は続けていました。その後、6年生でひょんなことから「迷走神経刺激術」という治療(胸に電極を埋め込み、24時間電気刺激を脳に送るもの)を受けた頃、学校から「中学になるに当たって、来年から肢体不自由校に転校しないか?」という相談があり、もっと身体機能訓練を取り入れた方が言いということを暗に勧められました。でも2回目の外科手術をしたばかりだったので、慣れた学校であと1年間様子を見させてほしいとお願いして、てんかん発作の改善に望みをかけました。でも・・・あまり芳しくなく、中2年から肢体不自由校に転校し、それはそれでいい学校生活を送ることができました。入学の時、東京都の方に言われたことは、間違っていなかったかも知れないけれど、それでも、やっぱり自分が納得の行くやり方で歩んできて間違いはなかったと思えています。

きょうだい

 障害を持った兄を、下の子供たちが疎ましくする時が来るんだろうな・・・と思って生活していたのですが、二人共長男がいる自宅に、平気で友達を連れて来て遊んだりしていました。野球を始めてからも、練習や試合に車椅子の長男を連れて行っても、文句を言われたこともなく、不思議なくらい兄のことを大事にしてくれています。
 つい先日、三男がいたずらをして注意をされたことがあり、そのとき三男は自分の非をとぼけようとしたので、その方は「障害があるわけじゃないんだし、とぼけるのもいい加減にしなさい!」と言ったそうで、その言葉にカチンと来た次男は「障害者を馬鹿にするようなことを言うな!」と泣いて迫ったそうです。その様子を見て、注意した大人がハッとしたということをその方から聞かされ、普段は何も考えていない風だけれど、障害者のことは本当に大事にしているんだとわかり、感動しました。
 次男は、中3年の頃に荒れたことがあり、見た目ものすごく派手な友達を夜中に連れ込んだりして手をやいたことがあったのですが、4年経った現在でもその子たちとはいい関係でつきあいが続いています。以前次男が「あいつらは、うちで兄がヨダレを垂らしていても汚いとか言わないで、タオルでフツーに拭いてくれてたんだ。だから俺はあいつらとはずっと付き合っていけると思ったんだ。」と話してくれたのです。う~~ん、それは私も同感!見た目はビックリされる子たち(とにかく派手!)なのですが、純粋な心を持った人間で私もその子達みんなが可愛くてたまりません。
 あゆみ学園の先生のきょうだいへの接し方の助言は、今でも忘れることなく私の心に刻まれていて、それが実践できたかどうかはわからないものの、次男も三男も優しい人に育っていることは本当に良かったと思えています。次男18才、三男16才で、決して品行方正で立派な人ではないのが、これまた味噌かな?とも思っています。

             お兄ちゃんにサングラスをかけさせ喜んでいる。まだ3人ともヒゲのないころ。

兄弟

これから、3人がどんな関係で成長していくのか、まだわかりませんが、それぞれの自分の人生を優先して行ってほしいと願っています。それには、親がきちんと長男を託せる人と場所を探さないといけないんだと、責任を感じています。
この10月で長男は20才になりました。ぼちぼち・・・なんて言ってられないのかも・・・(汗)

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