発達に遅れや偏りのある子どもと、その家族を応援します‼

この子とのあゆみ1

「最近うちの子、様子がちがう・・・」

写真1

そう気づいたのは1歳半くらいでした。自閉症には1歳すぎまで普通に見え、その後、言葉が消えていくタイプがあります。突然かわってしまう我が子に親は当惑しますが、多動になる場合は考える余裕もなく、一日中我が子を追いまわす日々が始まりました。

団地のドアの鍵を閉める一瞬のすきにいなくなり、あたふたする間に10階まで駆け上がっています。名前を呼んでも返事はしません。娘は花が好きで、すぐそばの植え込みの中で花を摘んでいたのに,全市のパトカーが探しまわったこともあります。母は昼間は全力疾走し、夜は夜で寝ない子につきあって睡眠不足になり,もうフラフラです。(この時期は、今よりかなりやせていました)

また、この子たちは、あらゆる高いところに登っては飛び降ります。下の部屋からは苦情が来るし、一日数百回もソファーに乗っては飛び降りるのを見ていると、気が狂いそうになります。ある時は食事を作っている間に姿が見えなくなり、ベランダから落ちたかと青くなりましたが、いません。玄関ドアの鍵も確かめ、風呂場ものぞき、親はもうパニック状態でふと上を見ると、食器棚のてっぺんですやすやと眠っていました。

いろいろ個性的な子でしたが、とにかく親の目からは可愛くてしかたがなく、最初は面白がって育てていました。でも、児童公園に行っても同年齢の他の子とは明らかに違うと感じるようになっていきました。第一,じっとしていないので,追いかけるのに忙しく、誰かと立ち話をする余裕もありません。地域に気軽に相談できる場所はなく、近所の人にはあやまってばかりでした。一方で、医師に見せて何と言われるか恐くて、病院に行くのを一日のばしにしていました。

告知

木登り

2歳半の時、ついに勇気を出して行った病院で、会うのは二度目の医師に、「お嬢さんは知的障害です」「近所のお子さんと一緒に小学校に行けるようにはならないでしょう」と言われました。その日から、「個性的」な行動が「これも障害だから」と見えてしまい、笑えなくなってしまいました。可愛いと思えなくなったのです。
どうしよう、なんとかしなくては、と思いつめ、誰か助けて・・と言いたかった。でも、実家にも、友人にも、言えませんでした。夫もかなり衝撃を受けていて、一緒に話し合う感じではなく、その頃の記憶は「私はこの世でたったひとり」という、ものすごい孤独感でした。

ネガティブでもいいじゃない
そんな私に光をあたえてくれたのは、間違いなく「あゆみ学園」(現在の子ども発達センター)でした。子どもの不思議な行動を説明してもらい、「ああ、そういうことだったのか!」「本人も苦しいんだ」とわかることで、どんなに救われたことでしょう。子どもの困った行動を「ああ、やってくれたのね~。お母さんたいへんでしたね」とねぎらいながらも、一緒に笑ってくれる指導員さんたち。この「笑える」ということが本当にありがたかったです。みんながうちの子を「困った子」でなくて、「可愛い」と思ってくれている、と感じて、「今はこれでいいんだ」と少し安心しました。

そして、私が元気になるのを助けてくれたのは、一緒にあゆみ学園に通っていたお母さんたちでした。みんな、見たところ元気そうに子どもと通っているのですが、入園したばかりの人たちと療育の待ち時間に話をしてみると、「どうしてうちの子がこんなところに来なければいけなかったのか」とあっちで話しては泣き、こっちで他の人の話を聞いては泣く、という感じでした。「私はマジメに生きてきたつもりなのに、どうしてこんなバチがあたったの」というのが主流の意見でした。最初は言わなくても、誰かが言い始めると、「そう!そう!私もそう思った!」「宝くじで大金をあてるよりも大当たりの、大はずれだよね」なんて言っていました。お子さんたちには本当に申し訳ない話です。でも、障害がわかったばかりの時期、お母さんたちは、ネガティブなことを一度は思いっきり言って、「そう思っちゃっても普通だよね、大丈夫だよね」と仲間に共感してもらいたい。そういう自分を認められてこそ、理想的な母親になれない自分を許せる・・というプロセスが必要な気がします。そうでないと先へは進めないと思うのです。

でも思いっきりネガティブになったあとは、逆に、「本当にやっかいな子なんだけど、こういう時は、ちょっと可愛くて・・・」「この前、こんなことやらかしたのよ、最悪でしょ、信じられる?」などと、親バカだか、不幸じまんだかわからない話をしあっては爆笑しあえるようになっていきました。本当は笑えない話もあったかもしれない。それでも笑い飛ばせる瞬間がある、というのが、すごく救いでした。あゆみ学園時代の思い出は、本当は悲惨なこともあったはずなのですが、仲間と冗談を言って涙が出るほど笑い転げた場面ばかりが思い浮かびます。

この時の経験は、私に、「人を信頼してみよう」という気持ちをあらためて与えてくれたと思います。そして、私たちが本当の意味で元気に生きていく方法は、たぶん、お母さんどうし、または立場の違う人とでも、「誰かと共感しあってつながること」・・・これ以外ないのでは、と実感しました。

花
先輩お母さんたちと、障害受容
そしてもう一つ、私を大きく助けてくれたのは、先輩お母さんの話を聞いたことでした。
ある障害児キャンプに参加した時、成人した障害のあるお子さんとお母さんが数組、講師の立場で来られていました。子育て歴25年以上のお母さんたちの話は、本当に私の中に染み込んでいきました。「その子が多動? うちは何倍もすごかったわよ。それでも落ち着いたから、絶対に大丈夫!」などと笑って言ってくださることに、どんどん気持ちが楽になっていきました。そして、大人になった自閉症の青年と数日間行動をともにしたこと、彼のエピソードを聞いたことは、本当に大きい経験でした。

ひとりの青年は、高校生くらいから毎日、家で掃除機をかけているそうです。それも、こだわりで、きっちりとすみっこまで。学校や作業所から帰ってくるとすぐにやる。熱があっても休もうとしない・・・。「こだわりがあって本当にありがたい」とお母さんは笑っていました。
「だからうちは、家族がみんな仕事をしていても、いつもきれいになっている。もう息子なしでは我が家はまわっていかない」・・・それを聞いてちょっとした衝撃を受けました。その男性は、おそらく軽度ではなかったのですが、家族に支援されるだけでなく、「彼がいてくれないと困る」と家族に頼られている。なくてはならない存在として家族を助けている。なんて素敵なのだろう、と思いました。幼児を育てている頃には考えられなかった未来でした。

もう一つ、思い出ぶかいのは、調布の親の会の成人グループの先輩お母さんたちに、「子どもが大人になっても、電車で独り言を言われると恥ずかしい」「ぜんぜん、完璧な障害受容なんてできてないわよ」と言ってもらったことです。
私は、「早く障害を受容しなきゃ」「子どもが何かやらかしても、ドーンと受け止める親にならなきゃ」と思い、焦っていたのです。でも、「なあんだ、できなくていいんだ!」「恥ずかしいと思ってもいいんだ」という事に、どれだけ救われたことでしょう。

私は、このような個性的な子どもたちと歩く人生は、とても面白いと思っています。素晴らしい人と出会えたり、我が子が成長する姿とじっくり立ちあえる感動があります。でも、だからといって、落ち込んだり悩んだりしないわけではありません。困るときは困るし、いいかげん嫌になるときもあるし、それが当たり前ではないでしょうか?
「完全に障害を受容する」などというのは、できなくていいと思うのです。
幼児期に一度受け入れても、就学、思春期、青年期と、親も悩みなおすのが当たり前です。「障害受容」は、生涯にわたってバージョンアップしながらも、ずっとつきあっていくものかなあ、と思います。
時間がかかってもいい。周囲は「こうあるべき」と言わないで、その人なりの受け止め方を、共感しながら見守ってあげてほしい・・そう心から願います。

思春期
小学校時代の娘は、「根拠のない自信」に満ちていました。人がどうであっても、あまり関係なく、マイペースで自由人。ところが中学生になった頃から、「人の目を気にするように」なったのです。自閉症でも、知的障害があっても、思春期は同じように来るのか!と驚きました。人と自分とを比べ、できないかもと思うとその活動に参加しなくなりました。
また、「大人の意図で動かされる」ということに、激しく抵抗しはじめました。人目を気にして、かつ自我が強くなって・・・しだいに居心地が悪くなったのか、不登校になった時期もありました。そんな中で、3~4年かかって、学校の先生方の根気強い対応や、障害児学童クラブの指導員さんたちの関わりで、だんだんに「自分らしく」すごせるようになったことを、今思い返しても本当に感謝しています。みんなが少しずつ自信を持たせてくれたり、安心できる居場所や役割を与えてくださったことで、どこかの段階で、「自分は自分でいい」と思ったのでは、と感じました。

高等部では、あるお友達がとても大きな存在でした。自閉症であっても、知的に重くても、気の合う友達ができるんですね。その女友達はすごくしっかりした方だったのですが、ケンカするときは全く対等でした。そして、二人ともケンカ別れしたことを気にして登校したようでした。朝、下駄箱のところで会って、ふたり顔を見合わせて思わずにっこり笑い、どちらからともなく仲直りをしていました。その瞬間を遠くで見ていて、「うちの子が、こんな人間関係を築けるようになったとは・・・」と、親が知らないところでの成長に驚き、涙が出ました。
思春期を乗り越えさせるのは、親だけではできない、と実感しています。親身になってくれるたくさんの「他人」が助けてくれたのだと思います。小学校時代からのつながりと、その後の新しい出会いとで、彼女は大人へと成長していけたのだと、いま、思います。

姉妹

妹の誕生
我が家では、娘が中学一年のときに、大事件がありました。12歳ちがいの妹が生まれたのです。ちょうど、娘は生理もはじまり、「心と体の学習」で、自分が赤ちゃんだったときのこと、そこから成長したことを学校で教わっていました。お母さんのお腹が大きくなるのにも興味しんしんで、体育の時間にボールを二個、体操服の下に入れて、お腹が大きいまねをして歩いていたそうです。
初めて病院で赤ちゃんにあったとき、あまりに小さくでビックリしたようでした。翌日、家から「ポポちゃん」という抱き人形を持ってきて、大きさを比べていました。なんと、本物の赤ちゃんの方が顔も手足も小さくて、またビックリしていました。
それから、抱っこしたり、おむつをかえたりしてくれました。半年たつと、抱き方もさまになってきました。学校に連れて行くと、友達に自慢するように、妹を抱っこしたがりました。赤ちゃんがえりとか、妹を避けたり、じゃまにしたりは、なかったです。とても可愛がり、膝にのせて、本当に嬉しそうにしていました。でも、きっとさみしかったこともあったでしょう。それでも、ほとんどそれを見せませんでした。時にイラっとするときは、別室に行って荒れていました。近くにいて妹に手を出したら壊れてしまう、と恐れたのでしょうか。この、「大人な対応」に、私は娘を見る目をかえました。
いろんな困った行動もなくはないけど、自分の好き勝手に生きているように見えるけど、きっと私よりも気高い魂を持っているのではないか。そんな気が、どうもしてきました。

三人兄姉妹の関係はどうなのか、というと・・・
長男は、長女には厳しいですが、「いろいろ違うところもあるけど、普通の妹だと思う」と小学生の時から言っていました。(娘は行動も言葉も、とても普通とは言い難いのですが)
でも、上の子は、ものすごく我慢してきたと思います。いろいろな方のアドバイスで、母は時々、お兄ちゃんだけとデートするように意識していました。それがどう影響しているかはわかりませんが。

下の妹は、もう小学校低学年ですから、だいぶ、いろいろわかってきたようです。「もー、またお姉ちゃんがDVDひとりじめしてる!」なんて怒ったり、「お姉ちゃんが食べないように、このお菓子かくしておいてね」とか言っています。
でも、お姉ちゃんとお風呂に入るのは大好きです。「どうして?」と聞いたら「ギュッとしてくれるから」と言っていました。グラマーな姉の胸が、ムギュッとすると気持ちいいんだそうです。姉も、妹を抱っこするのが大好きなようです。
特に素晴らしいことは何もないですが、肩の力をぬいた きょうだい関係ではないかと思っています。ペーパーフラワー

ところで、花を摘んでよく行方不明になっていた我が家の娘は、20歳になり、作業所でペーパーフラワーを作っています。気がつくと、あのとき摘んでいた「しろつめぐさ」と似た形の花を作っていました。

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